退魔の仕事から帰宅した途端に聞かされた話に、怒るより先に呆れが口を突いて出た。
「初花……」
「おしかりは後で。今はナツ様を探さなきゃ」
 姉、音羽桂香の言葉を遮り、初花はいつもはなかなか見せようとはしない真剣な表情を見せる。
 それだけ事は大事になっているらしい。
 確かに両親が不在の間に、祭神がいなくなりました。では、情けなすぎて会わせる顔がない。
「わかった。でも初花、全部終わったらお説教だからね」
 手にしていた荷物をとりあえず社務所に置くと、桂香は脇目もふらずに滝の方へと駆け出していく。
 やはりこういうときの姉は頼りになる。
(普段は怒ってばっかだけどね)
 内心でそんなことを呟くと、初花はクルリと踵を返す。
 とにかく葉子にも頼んでおくに越したことはない。
 なんだかんだでナツと過ごした時間は、彼女が一番長いのだ。
 それはおそらく、幹也がこの先どれほど頑張っても覆ることのない、唯一のナツの一番だ。
「葉子さ──」
 境内にいる葉子に声をかけようとした瞬間、初花は思わず自分の口を押さえつけた。
 確かに目の前にいるのは葉子だ。しかし、その葉子と対峙している相手は、あろうことかあの子猫なのだ。
 しかも二人の間には、どういうことか尋常ならざる空気が流れている。
 さすがにこと距離では会話の内容まで聞き取ることはできないが、どうやら初花はとんでもないものを神社に持ち込んでしまったらしいことは確かだ。
(お兄ちゃんたちに知らせないと)
 桂香ならばまだそれほど遠くにも行っていないはず。
 初花は静かに、しかし急いでその場を離れると、桂香の向かった滝へと駆け出していった。





 一方、境内で猫と狐の壮絶な睨み合いが続いていた頃、幹也の姿は小さな洞窟に在った。
 以前、九尾の狐が現れた際に、葉子の入れ知恵でナツが身を隠していた場所なのだが、どうにも人が立ち入った形跡はないらしい。
 もっとも、ナツは人の身ではあっても人ではないのだが。
「ナツ様。くそっ、ここにもいないのか」
 心当たりを探して、これで何件目だろうか。かれこれ二桁に差し掛かったはずだが、未だにナツの影を踏むことすらない。
「まさか山を降りたんじゃ……」
 外界を殆ど知らないナツにとって、それはあまりに自殺行為だ。
 一人で山を歩くことさえ危険だというのに……。
「まさか妖怪に襲われたりはないよな」
 最悪の事態を想像した幹也は、身震いすると、すぐに悪い思考をかき消した。
 なんとしてでもナツを見つけなければならない。
 そのときだった。背後に迫る気配に、幹也はとっさにその場から飛び退くと、襲いかかる相手に身構える。
「くっ、こんなときに!?」
 周囲の水分をかき集め、自らの周りに薄い膜を作る水龍に、幹也は苛立ちを露わに舌打ちする。
 決して弱い相手ではない。しかし解せないのは、なぜこんな場所に妖怪が現れたのだろうか。
 妖怪たちは、基本的に神様が立ち寄るような場所を避けて行動する傾向にある。
 中には強大な力を持つことで場所など関係なく現れる者もいるが、水龍がそれらに該当するなど聞いたこともない。少なくとも目の前に立ちはだかる水龍からは、そんな強い気配は感じられない。
「ということは、召喚した術者が近くにいるのか」
 注意深く探ってみると、水龍のずっと背後に小さな気配が動いている。
 ふと、“小さな”という部分にひとつの仮説が浮かび上がる。
「まさか……」
 想像が正しければ、水龍が一向に攻撃してこないのも頷ける。
 刹那、幹也は水龍を素通りすると、構わず走り出した。
「お前に構っている暇はない!」
 背後でなにやら吼えているようだが、そんなものはハナから無視。
 幹也はナツの姿を探して駆け出した。
「ナツ様っ!」
 次に襲いかかってきたのは鎌鼬だ。
 今度は先ほどの水龍とは違い、その鋭利な両手から生み出される真空の刃が幹也に襲いかかる。
 回避している時間が惜しいと、霊気をまとった拳──聖拳で片っ端から叩き落とすと、鎌鼬を傷つけないよう足元を狙って霊気を発射する。
 やはり背後でなにやら言っているようだが、そんなことに時間を取られている場合ではない。
「うおおおおおっ! ナぁあああツぅうううううさぁああああまぁああああッ!!」
 でぼ雀の行列が織りなす破壊音波のトンネルを潜り抜け、水蛇の群を突き抜ける。蝦蟇の執拗な舌を断ち切って、狛犬の炎が生み出した壁を拳一つで吹き飛ばす。海坊主の体当たりを蹴散らし、土中から奇襲をかける土竜の爪さえも幹也の拳が打ち砕く。
 犬神の素早い攻撃をかわし、仕上げとばかりに護法童子の法術が降らせる巨石を片っ端から拳で粉砕すると、幹也はその先を走り去る白い後ろ姿に手を伸ばす。
「ナツ様待ってください! 俺の話を……」
 何度も空を切った指先が触れた瞬間、幹也は力一杯腕を伸ばして掴み寄せる。
 だが、その小柄な肩を掴んだ幹也の額に青筋が浮かぶ。
 結論から言おう。振り返るそれはナツではなかった。
 白い鬘をつけ、ナツの衣装を身にまとう座敷童は、幹也の表情に涙を浮かべる。
「いや、わかってる。悪いのはお前たちじゃない」
 幹也が怒っていないとわかり、座敷童は安堵の息を漏らす。
 その姿を見るに、どうやら追いかける幹也の形相は、相当怖かったらしい。
「悪かったな。お前は後ろの仲間を癒してやってくれ」
 ポンポンと頭を叩いてやると、座敷童は何度も頷いて幹也の背後に広がる死屍類々へと駆け出していく。
 それにしても……だ。
 幹也の口元が不敵な笑みを浮かべ、やり場のない怒りがわなわなと両手の指を震わせる。
「ふっふっふっふっ……」
 初花がいれば、まず「お兄ちゃんが壊れた」という発言を言い出しかねないほどに、幹也は怒っていた。
「ふっふっふっふっ、はーっはっはっはっはっはっ!! そうですか。そこまでしますかナツ様」
 怖い。めちゃくちゃ怖い。それは幹也の背後で震え上がる妖怪たちを見れば一目瞭然だ。
「もぉ怒った。こうなったら意地でも捕まえてやる!」
 それにしても、妖怪バリケードに猫叉が出てこなかったのは、やはりあの子猫が原因なのだろうか。
 どうやらナツにとっては相当ショックな出来事だったのだろう。
 それは、ナツが子猫に対して感じた嫉妬心。
 ようやくそのことに気づいた幹也は、あの去り際でのナツの表情を思い出す。
 そうだ。悲しそうというよりも、あれは……
(寂しかったんだ)
 ならば必ず掴まえてみせる。これ以上ナツに寂しい思いをさせないように。それこそがナツの一番である幹也の義務であり、幹也の一番であるナツへの愛情だ。
「よし、いくか!」
 両の頬を何度か叩くと、気合いも新たに幹也は走り出す。
 後にも先にも、幹也の走る先に在るのはただひとつ。
「今行きますよ、ナツ様!」
 夜の山に、幹也の声が木霊した。





 初花の知らせで急遽反転してきた桂香は、目の前に広がる光景に力いっぱい脱力した。
 無理もない。初花が妖怪かもしれないと言っていた子猫と、我らが大妖怪葉子さんは、縁側に七輪まで持ち出して、まったりとお茶を飲んでいるのだから。
 もしやと思って駆けつけてみれば。いったいどういう展開なのか、これはさすがに想像に難い。
「初花……」
「あ、あたしだってわかんないよ!」
 そもそも、子猫の前にも熱いお茶が置いてある時点でわけがわからない。
 葉子が警戒していないところから察するに、敵ではないようだが。
「ヤレヤレ。騒がしい巫女だね、音羽姉妹」
 どこからともなく聞こえる声に、桂香と初花は身構える。
 注意深く周囲を伺うがそれらしい気配はない。
「どこ見てるの。ここだよ、ここ」
 そう言われても、やはり相手の姿は見あたらない。
 そして葉子は我関せずとお茶を啜る始末。
「現役巫女のクセにニブいね」
「にぶ──っ!?」
「あったまきた! そこまで言うなら隠れてないで出てこ〜い!」
 初花の雄叫びに、葉子の失笑が漏れる。
「桂香ちゃん、初花ちゃん。隠れてなんかいないわよ?」
 そう言うと、葉子は茶を啜りながら隣の猫を促した。
「ここだよ、ここ」
 向けた視線の先では、猫が二人に向かって手(?)を振っている。
「お〜い、見えてる?」
「ね、猫が……」
「しゃべってるよ」
 実際に見るとそれはそれで不気味な光景だった。
 確かに本職の巫女である彼女たちは、妖怪などの人外を相手にすることは多いのだが、こうして何食わぬ顔で話しかけられると驚くしかない。
「二人とも、まずは落ち着いて。こちら、流浪の旅神。愛称は“フユっち”よ」
 人ではないので旅神。さらには愛称まですでに決まっているあたり、葉子とはそれなりの仲なのだろうと察することはできた。
「なぁんだ、神様かぁ……って!」
「か、神様……なんですか?」
 桂香の問いに、天之冬衣は「まぁね」と、得意げに尻尾を揺らしている。
「フユっちはともかく、ナツみたいにフユってかわいく呼んでくれていーよ」
 いや、めちゃくちゃ語呂が悪い。というか名前としては呼び難い。
「はぁ。そ、そのフユ……様が、どうしてこちらに?」
「ナツの様子を見に来たんだよ。最近、少し変わったと風の便りに耳にしてね」
 それはおそらく幹也のことであろう。
 確かに、幹也のおかげでナツはずっと人に近しい存在となった。
「ボクたち神は本来、人とはかけ離れた存在故に共に在る者は少ない」
 それは存在としても、寿命としてもだ。
「とくにナツは人を遠ざける傾向にあった。それが……だ」
 ナツは変わった。より人と近しい存在となり、生涯を共にするパートナーを手に入れた。
 それらはすべて、あの滝峰幹也という聖職者のおかげだというから、会ってみたいと思うのはなんら不思議はない。
 つまり……だ。
「フユ様は幹也さんに会ってみたくて……」
「あたしにくっついてきたの?」
「そーとも言うね」
 いや、そうとしか言わない。
 無理もない。人が神の存在を脅かすなど、そうそうある話ではない。
 興味が湧くのは至極当然というわけだ。
「あとはナツに会いに来たんだ」
 同じ神同士だからね、と告げるフユに、桂香と初花は顔を見合わせる。
「ナツ様はモテモテね〜」
 思いっきり他人事な葉子に、やはり二人が脱力する。
 まぁ、確かに葉子はそういう人物なのだが。
「とにかく元気そうでよかったよ」
 森の方で度々上がる爆発に、桂香と初花は苦笑を浮かべる。
 どうやらナツと幹也の鬼ごっこは未だに続いているらしい。





 あれからどのくらいの時間が経っただろうか。
 気がつけばすっかり日は沈み、空では月が、歩く先を照らしている。
 さすがに疲れも出てきたが、ナツの仕掛ける罠は回を増すごとに激しくなっていく。
「いくら……なんでも……縛魔の術はヤバかった」
 幹也は魔ではないために、この術に捕まっていれば肉体から切り離された魂を封印されてしまう。
 どうやら、いい加減ナツも目的と手段が食い違い始めているらしい。
 しかし、そろそろ本当に捕まえられなければ幹也の身体だけではなく、ナツの身も心配だ。
 数多くの術を駆使した上に、ずっと走り続けているはず。
 いくら神様でもそろそろ限界のはずだ。
 もしそんな状態で襲われてしまえば、さしものナツとてただでは済まない。
「俺が走れるうちに見つけださないと……」
 ふと、顔を上げる幹也の耳に、なにか小さな音が聞こえてきた。これは……
「水……川があるのか」
 そういえばナツと初めて触れ合えたのも川だった。
 そう思った瞬間、幹也の足は自然と川の方へと引き寄せられていく。
 草の根を掻き分け、ようやく歩きやすい場所に出た幹也を迎えたのは、金色に輝く大きな月であった。
 まるで魅了されたかのようにゆっくりと見上げれば、月に手が届きそうな小高い丘に、小さな影が在った。
 いや、下は川だから断崖絶壁と言った方が良いかもしれない。
 ゆっくりと近づいていく幹也の心臓が早鐘のように鼓動を打ち、まるでその音が聞こえたかのようにナツが幹也を振り返った。
 月を背に、肩越しに振り返るナツはとても綺麗で、そして悲しい瞳をしていた。
「さぁ、一緒に戻りましょう」
 手を差し伸べる幹也に、ナツは黙って背を向ける。
 まるで何か言えばここから飛び降りるとでも言い出しそうなナツの姿に、幹也は更に一歩を歩み寄る。
「ナツ──」
「いや」
 言葉を遮られ、幹也は思わず息を呑む。
「ナツは……ひとり」
「ナツ様!」
 たどたどしく言葉を紡ぐナツが、ゆっくりと後ずさり……
「みきやに……嫌われたくない」
 ゆっくりと、しかしはっきりと頭を振るナツに、幹也はガァンと頭を殴られたような気持ちになる。
 ナツがどうして逃げているかわからなかった。ナツがなぜ幹也から遠ざかるかわからなかった。
 ただ、嫌いだという言葉を幹也本人から聞きたくない。たったそれだけのことなのだ。
「ナ……──」
 三度言葉をかけようと試みたそのとき、幹也は絶望的な光景を目の当たりにした。
 ナツの立つ足場が崩れ落ち、まるで闇に落ちていくかのようにナツの身体が傾いた。
「ナツ様っ!!」
 掴まえた。そう思った瞬間、幹也の身体もまた、夜の川という闇に落ちていく。
 だが、放さない。絶対にこの温もりだけは放してなるものか。
 なんとかナツの身体を手繰り寄せると、幹也は小さくなった身体すべてで包み込むようにナツの身体を抱きしめる。
 あのときのような焦りも、ナツがいなくなった不安もない。
 幹也はナツに自分の知りうる最高の笑顔と、無限の愛情でキスをした。
 最後の記憶は驚いたような、でも嬉しそうに瞳を閉じる最愛のひとの顔だった。





 身体が重い。まるで底なしの沼にハマってもがくような感覚に、幹也は必死に手を伸ばした。
 届かない。闇の中からでは太陽に手が届かない。
 あの笑顔に届かない。
 ああ、そうか。届くはずかなかったんだ。
 徐々に覚醒する意識の中、幹也は己の右腕がないことに気がついた。
 そういえばナツは無事なのだろうか。
 掠れたままの視界では確認することができず、幹也は不安にかられる。
 もしこのまま自分が死ぬようなことがあれば、きっとナツは悲しんでしまう。
 そう思った瞬間、幹也は弾かれたように飛び起きた。
「ナツ様!」
「みきや!」
 完全に不意をつかれ、幹也はナツの体当たりで再び倒れ込む。
 情けない。こんなとき、好きなひと一人支えてあげられないなんて。
 それに……
「すみません、ナツ様……」
 抱きしめることができなくて。一人にしてしまうかもしれなくて。悲しい顔をさせてしまって。
 しかし、そんな幹也の意思とは裏腹に、ナツは甘える仔犬のように擦り寄ると、嬉しそうに幹也の頬をひと舐めする。
「みきや、好き」
 まだ塗れた身体で頬を擦り寄せるナツに、少し困ったような表情を浮かべるも、幹也はすぐに優しい眼差しを向ける。
「俺も、好きですよ」
「ナツはあいしてる」
 幹也に負けじと言葉を紡ぐナツに、幹也は驚いたような、しかし幸せを噛みしめるよう頷いた。
「俺だって愛してますよ」
「ナツは、みきやだけあいしてる」
 また張り合われた。しかし、なにがそんなに嬉しいのだろうか。さっきまでのナツの表情が嘘のように消え、冬の川原で夏の太陽が咲いている。
 いや、そんなことは聞くまでもなかった。
 なぜなら、幹也もまた同じように笑っているのだから。
「みきや……」
「はい」
 なにかを強請るように、ナツが上目遣いで擦り寄ってくる。
「ぎゅってして」
「はい」
 あまりに幸せで忘れていたが、幹也の右腕は……
 しかし、意に反して幹也の両腕はナツの柔らかな身体を包み込む。
 先ほどまでなかったはずの感覚が戻っているのだ。
「そういえば……」
 すっかり忘れていたが、今の幹也はナツが無事な限り、首を掻き斬られようが、爆弾で木っ端微塵にされようが死なない半不死身人間なのだ。
 腕のひとつやふたつ、千切れたところで死ぬわけがないし、放っておけばまた生えてくる。
 もう、ナツを守り傷つくことは怖くない。自分は死なない上に、ナツに寂しい思いをさせることはない。
 男にとって、これほど幸福なことはない。
「みきや、どうしたの?」
「いえ、ただ……」
 言葉を濁す幹也に、ナツは可愛らしく小首を傾げる。
「俺は幸せ者だと思って……」
 そう言ってナツの耳に頬を寄せる幹也に、ナツはくすぐったそうに目を細める。
「ナツ様。寂しい思いをさせてしまって、すみませんでした」
 囁くように告げる幹也に、ナツは小さく頷いた。
「あのね、みきや。ナツはみきやとずっと一緒がいい」
 明日も明後日も、ずっと未来も。
 やっと手にしたものは、とても儚くて脆いものだけど、それを大事に育てることで、きっと二人は幸せになれる。
 なぜならば……



俺は……女神に恋をしたのだから。





 翌日、幹也はいつも通りに朝のランニングを済ませると、手にしたビニールを揺らしながら本殿へと急いだ。
「みきや」
 そんな嬉しそうな声に、幹也の頬はだらしなく緩む。
 仕方がないことだ。これが幸せというものなのだから。
 昨晩、遅くに帰宅した二人は、前にも増した幸せオーラを放っていたらしく、初花には溜息をつかれ、葉子には「そういうものですわ」などと笑われた始末。
 桂香にいたっては、面白くなさそうに夕飯の支度をしてくれた。
 ともあれ、電車事故で音羽の両親の帰宅が遅れたために、今回の騒動を知られることがなかったのは幸いだった。
 以前、ナツ様をどうかよろしくお願いしますと、あれほど注意を受けたのだ。
 バレれば滝峰の実家にまで筒抜けになってしまう。
 そうなれば、いかにナツの影響で力が増したとはいえ、半殺しにされかねない。
 そんな自分を想像して身震いすると、幹也の首に暖かいものがふわりと巻き付いた。
「みきや」
「ありがとうございます。ナツ様」
 かけられた真っ白なマフラーに触れ、幹也は背後に忍び寄っていたナツを振り返る。
「おどろいた?」
「いいえ。俺はもう、ナツ様を見失ったりしませんからね」
 だから背後に忍び寄っていたことも、当然知っていた。
「あ、そうだ」
 忘れるところだったと、手にしたビニールをナツに差しだし、袋を開けてみせる。
「一緒に食べようと思って……」
「うん、食べる」
「あたしもー!」
「では、私もひとつ……」
「じゃあボクも……」
 唐突に現れた三つの手が、次々に袋から肉まんを取り出していく。
 大丈夫。まだ二つ残っている。
「幹也さん、それにみんなまで。なにをしているんですか?」
 そんな桂香の声に、幹也の表情が固まった。
 ある程度の事態は予測して五つの肉まんを買ったはずなのだが……。
 最初に手にしたのは初花。次は葉子。で、桂香は今来たということは……。
「えっと……」
 そこには見知らぬ子供がいた。
 男の子なのか女の子なのかわかりにくい綺麗な顔立ちをしており、頭には髪の毛と同じ茶色い猫耳がついている。
 視線を落とせば、お尻の方で尻尾も揺れている。
 幹也のような宮司服を身につけているため、一応は男の子なのだろうが、どうしても耳や尻尾のせいで女の子に見えてしまう。
「あの……どちらさまですか?」
 幹也の問いに、少年は自らを指さした。
「ボクはフユ。ナツの親戚みたいなものだって思ってくれていいよ。あ、肉まんゴチソウサマ」
 さっさと平らげ、指を舐める仕草はどこか猫っぽい。
 なるほど、合点がいった。
「あなたが昨日の猫だったんですね」
「そだよ。幹也は音羽姉妹よりも勘がいいね」
(鍛えられていますからね)
 そんなことを考えながら、ちらりと葉子を盗み見るが、バッチリ視線が交差した。
「まぁ幹也さん、鍛えるだなんて。ただ弄くり回しているだけですわ」
「尚悪いです!」
 あっけらかんと言い放つ葉子に訴える幹也を余所に、ナツは袋から取り出した肉まんを桂香に差し出した。
「いいんですか?」
「だいじょうぶ」
 ナツは最後の一つを取り出し、小さな口で肉まんにかぶりつく。
「ナツは、みきやと間接キスする」
 どこで入れ知恵されたのやら、そんな言葉を使うナツに桂香だけならず幹也と初花も吹き出した。
 もっとも、この時点で犯人は決まったようなものなのだが。
「葉子さん! ナツ様になんてこと吹き込んでるんですか!?」
「あら〜? なんのことでしょう」
 この期に及んでもまだしらを切るつもりらしい。
 初花は初花で、「その手があった」などと呟いている。
 すっと差し出された食べかけの肉まんに、幹也は思わず生唾を飲み込む。
「みきや、ナツと間接キスは……いや?」
 嗚呼、そんな顔をされると弱すぎる。
 差し出された肉まんに口をつけ、幹也は恥ずかしさで味もわからない肉まんを噛みしめる。
「おいし?」
「え、ええ。おいしいですよ、ナツ様」
 嘘だ。味なんてわかっちゃいない。
「そうだ。幹也、ボクと添い遂げてくれそうなひとはいないかな?」
 人間にひどく興味を持ったと告げるフユに、幹也は困り果てたように肩を落とす。
「ねぇ、お兄ちゃん。今度はあたしとデートしよーよ」
「だめ! みきやはナツの」
「ちょっとだけ。いいじゃないですか」
 初花の言葉に、ナツはぶんぶんと勢い良い頭を振る。
「では、間を取って私が……」
「「だめ!」」
 葉子の提案に、ナツと初花の声が重なる。
「残念ですわ……」
 その言葉がどこまで本気なのやら。葉子はすでにコロコロと笑みを浮かべている。
「えっと……幹也さん」
「ごめんね、桂香さん。でも……」
 そんな幹也に、わかっていますとばかりに頷き、桂香は一同を見回した。
「これが、いつもの私たちなんですよね」
 この騒がしくも、幸せな日常が。
 それはすぐ隣に愛するひとがいて、ずっと微笑みかけてくれているような安心感。
 それを幸せというならば、自分はどれほど大きな幸せを手にしたというのだろうか。
 ナツのように真っ白な雲を追いかけ、幹也は思う。
 永遠なんて決してないけれど、それでもこんな幸せが永遠であることを願っている。
「ナツ様」
「みきや」
 一同の見守る中で、二人の影が重なった。












<おしまい>