夕方、初花の帰宅にも気づかず、幹也は呆け続けていた。
 あれから、ナツ様は一度も姿を見せていない。葉子の話では本殿に引っ込んで布団に隠ってしまったそうな。
 さすがに初花も状況を理解できず、仕方なく葉子にご足労願ったわけなのだが……。
「これは重傷ですわね」
 人事だけに、人事のように語る葉子に、初花は苦笑を浮かべる。
「お兄ちゃん、さっきからずっとこの調子なの」
「正確にはさっきではなく、お昼前からですわね」
 あっけらかんと言い放つ葉子に、初花は思わずガックリと肩を落とす。
 見ていたのならなんとかしてくれればいいものを。やはりこの人は人の不幸を楽しむ節がある。
「狐の妖怪ですから」
「葉子さん、そんなところまで読まなくていーから!」
「おほほほほほほ♪」
 確かに、そんな地の文にまで干渉されても困る。
 激しく脱線したので話を戻す。
 とにかく、幹也はなにかがあってお昼前からこの調子ということだ。
「葉子さん、なにかわかった?」
「そうですわね。わかるなという方が無茶というもの」
 そう言いながら、葉子はナツ様の控える本殿の方をビシッと指さした。
「答えはあそこですわ!」
「まさか……お兄ちゃん、ナツ様とケンカしたの?」
 それ以外になにがあるとばかりに、葉子は幹也の口元で聞き耳を立てる。
 やはりというかなんというか、ぶつぶつと「ナツ様、ナツ様」と繰り返している。
 正直、不気味な光景だった。
「お兄ちゃんがこんなに簡単に折れちゃうなんて……」
「なんと言ってフラれたのかが気になりますわね」
 幹也さえ正気ならば、必死にフラれた発現を否定しているところだ。
 それにしても初花の言うとおり、幹也をここまで落ち込ませるということはなかなかできることではない。
 件の役立たず宣言でもこれほど落ち込まなかったのではないだろうか。
 それだけ、幹也の中でもナツ様が大きなウェイトを占めていたということなのだろう。
「つまりはぞっこんだったのですわね」
「なんで過去形なんですか!」
「あ、お兄ちゃん気がついた」
 それでも半泣き状態であることに変わりはない。
 さすがにポジティブシンキングを身につけただけのことはある。復活は早かった。
「いわゆる、ショック療法ですわね」
「もう少しマシな言葉をかけてくれてもバチは当たらないと思うんですが……」
 しかし、現にバチ……というか神様の怒りに触れたのは幹也なのだが、この際それは置いておくことにする。
「結局、なにがあったの?」
 初花の問いに、幹也は実に答えにくそうに言いよどむ。
 だが、観念したのか幹也はポツリと経緯を話し始めた。





「──というわけなんだ」
 ようやく話し終えた幹也に、初花は苦笑を浮かべると同時に居たたまれない気持ちでいっぱいになった。
 よもや自分の連れてきた猫が原因でここまでの事件が起こるなど予想すらしていなかった。
「ごめんね、お兄ちゃん」
「いや、初花ちゃんのせいじゃないよ。きっと俺の言い方に問題があったんだ」
 でなければ、あの優しいナツ様が怒ったりするはずはない。
 しかし、葉子の反応だけは一人違い、とんでもないことをあっけらかんと言い放つ。
「それは幹也さんのせいでも、猫のせいでもありませんわ」
 葉子の言葉に二人の視線が集まる。
「ナツ様が悪いですわね、完全に」
 言い切った。
 言うに事欠いて、神が悪いと言ってのけたのだ。驚くなという方に無理がある。
「あ、あの……葉子さん?」
「恋愛は一人でするものではありません。これは完全にナツ様のワガママですわね」
 言われて見ればそんな気がしないでもない。しかし、ナツ様のワガママとはいえ、やはり悪いのはワガママを言わせてしまった自分なのではないだろうかと考え始めるのが幹也という男だ。
「俺、やっぱりちゃんと話をしてきます」

にゃー

 自分も行くとでも言っているのだろうか。立ち上がる幹也に付き従い、猫はおとなしく待っている。
「いや、お前はここにいてくれ。ナツ様には俺が一番でありたいんだ」

にゃー

「ありがとう」
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。ナチュラルに猫と会話してるし……」
 初花のツッコミなどなんのその。幹也はその場に二人と一匹を残し、本殿へと駆け出していった。
 残された者たちは三者三様で、素知らぬ顔で座布団を枕に横になる者。大人しく待つ者。そして……
「やっぱり心配だからあたしも見てくる!」
 待っていられない者がいた。





 しかし、啖呵きって出てきたはいいのだが、いざ本殿を前にするとなんと言ったら良いのか検討もつかなかった。
 そもそも、葉子曰く、この鈍感で女心のわからない朴念仁に、ナツが猫に嫉妬していたなどという結論を導き出せというのが難題なのだ。
 戸を叩き、手をかけたまでは良かったが、いざナツを前になんと言って良いかもわからず、幹也は沈黙のまま戸の一点を見つめ続ける。
 躊躇いとでもいうのだろうか。しかし、幹也はナツ様に会いたいし、声だって聞きたい。触れ合っていたいのだ。
「俺が見たいのは、あんな悲しい顔をされたナツ様じゃない」
 意を決し、幹也はゆっくりと戸を開け放つ。
 僅かだが、お香の匂いがする。
 以前、滝峰の実家に二人で行った際に、いい匂いだと喜んだナツに幹也がプレゼントしたものだ。
 ナツは犬だけに鼻が利く。あまり匂いの強くないお香を探すのに随分と苦労したものだ。
 しかし、よくよく考えてみたらこれは明らかにおかしい。
 広い本殿内で、匂いの弱いお香をたいて、果たしてここまで香りが漂ってくるものだろうか。
「ナツ様……」
 足を踏み入れ、本殿内をぐるりと見回すが、そこにナツらしき姿はない。
 とにかく今は匂いを出さなければ。
 締め切った本殿を片っ端から開け放ち、幹也は匂いの元であるお香も灰を被せて土に埋めておく。
 それにしても、ナツはいったいどこにいってしまったのだろうか。
 まったく見当がつかない上に、手がかりがないとなると、やはり探して歩くには限界がある。
 そもそもナツは神速なのだ。普通に追いかけて捕まえることは、まず不可能と言ってもいい。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
 驚いた様子の初花に、幹也はわからないと頭を振る。
「ナツ様……。いったいどこへいってしまったんです」
 祈るように空を仰ぐ幹也は、藁にもすがるような気持ちでナツの霊力を辿り出す。
 しかし、ここはナツを奉る神社。この神域でナツの霊力を捜し当てるのはやはり無理がありすぎる。
 ならば、ここはやはり最後の手段しかない。
 突然、屈伸運動を始める幹也に初花が首を傾げる。
「お兄ちゃん?」
「片っ端から虱潰しに探してくる」
 幹也の言葉に初花は驚きを通り越して呆れ返る。
 ナツ様が動いたのがついさっきだとしても、創作範囲は山ひとつ。いくらなんでもそれは無茶というものだ。
「無茶でもなんでもやってやる。俺には……ナツ様が必要なんだ」
「わかった。でも、あたしも協力するからね」
 有無を言わせぬ迫力に、さしもの幹也もたじろいた。
 初花だって幹也のことが好きだった……いや、まだ彼を好きなままなのだ。そんな相手にここまで言わせているのだ。神様と巫女という関係は抜きにして、女として対等に言ってやりたいことができた。
「とりあえずお兄ちゃんは先に探して。あたしは葉子さんに救援要請してから探すから」
「わかった」
 頷き、すぐさま駆け出そうとして、幹也はゆっくりと歩みを止める。
 何事かと首を傾げる初花に、幹也は「初花ちゃん」と呼びかけた。
 僅かな沈黙の後、ふと見せる幹也の笑顔に初花の心臓が大きく跳ねる。
「な……、なに?」
「初花ちゃん、ありがとう」
 ただそれだけを伝えたかったというかのように走り出す幹也に、初花は思わず頬を膨らませる。
 やはり、まだまだ諦めるには早すぎる。
「お兄ちゃん、ナツ様……覚悟しててよね」
 不敵に笑う初花の胸に、再び恋の闘志が湧き上がっていた。





 話は少し前まで遡る。
 落ち込んだまま幹也と別れたナツは、とぼとぼと歩き続け、気がついたときには本殿まで戻ってきていた。
 目を閉じればさっきの幹也が思い返される。
 膝の上に猫を乗せ、ナツのことを怒っていた。
 ナツはただ、誰よりも幹也の傍にいたかっただけなのに。
「みきや……」
 いつもならその名を口にするだけで幸せな気持ちになれるというのに、今日に限っては辛い気持ちがのし掛かってくる。
 わからない。幹也はナツよりも猫が好きになってしまったのだろうか。そんな考えを自分で否定すると、ナツは大切にしまってあった小さなお香を取り出した。
 幹也とナツだけの小さな旅行。
 実際は滝峰の実家に行っていただけなのだが、ナツにとっては初めての外界であり、初めてのデートだった。
 たまたま行ったその日に、幹也の部屋をお香で清めていたらしく、部屋を満たす香りがナツの鼻をくすぐった。

『ナツ様、気に入りましたか?』

 ナツは迷わず肯いた。

『じゃあナツ様用のお香を買いに行きましょうか。ナツ様は鼻が利きますから、匂いが薄いのを探さなければなりませんね』

 そんな幹也の言葉を思い出しながら、ナツは大切なお香に火をつける。
 小さな三角錐のお香からは細い煙が立ち上り、ナツはじっとその煙を見つめ続ける。
 おかしい。あのときのいい匂いがしない。
 キチンと火がついていないのかもしれないと、ナツは擦ったマッチをお香の中腹に寄り添わせた。
 途端、キツい匂いが鼻を突き、ナツは涙目になって鼻を押さえる。
「みきやのと違う」
 きっと幹也に嫌われたからだ。幹也がいないからいい香りもなくなってしまったんだ。
 そう思うだけで、お香の匂いはより一層鼻を突いてくる。
 そのときだった。本殿の戸が叩かれ、ナツは反射的に駆け出しそうになる。
 だが、もしそこにいるのが幹也なら、ナツにさよならを言いにきたのかもしれない。
 ほかの誰よりも、幹也からその言葉を聞くのが一番怖い。
「そうしたら……ナツはまたひとりぼっち」
 せっかく……、せっかく一緒に生きられると思っていたのに。
 戸を叩いた相手はなにも言わない。きっと言い難いことをなかなか言い出せず、喉の奥に押し留めているに違いない。
 聞きたくない。そう思った瞬間、ナツは慌てて駆け出すと、窓をよじ登って外へと脱出する。
 足は足袋だけだが、そんなことを気にしていられない。
 早くしなければ幹也がきてしまう。
 その後のナツは実に迅速で、あっという間に神社を抜け出すと、森の方へと駆け抜けていった。
 すれ違うこともないはずの想いは、時として神をも走らせるらしい。
 今ここに、ナツと幹也の盛大な鬼ごっこが始まった。





 一方その頃、境内の葉子はというと。
 いったいなにをしているのやら、子猫を相手に妖気が立ち上らんばかりの勢いで睨みつけている。
「さっきはああ言いましたけど、アナタが幹也さんにちょっかいを出したのがそもそもの始まりでしょう」
 葉子の言葉に子猫はわからないと首を傾げる。
「そうやっていつまでも普通の猫が通ると思っているのかしら」
 その瞬間、猫は明らかに視線を逸らした。
 今頃はきっと緊張で肉球に汗をかいていることだろう。

に、にゃー

「動揺してどもる猫なんて聞いたこともありませんわ」
 ピシャリと言い放つ葉子に、猫はついに頭を垂れた。
 人であったのなら、間違いなくガックリと肩を落としていたることだろう。
「この季節になると必ずどこかに現れますわね。アメノフユキヌ……」
 葉子の言葉に当たり前だとでもいうかのように、猫の目つきが変わる。
 神を相手にこれだけの啖呵が切れれば十分すぎる。
 天之冬衣【アメノフユキヌ】はやれやれと溜息をつくと、ようやくその真の姿を現したのだった。












<つづき>